江戸東京の史跡巡り(半日)
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江戸の史跡探索の続きで、ちょうど都営三田線と都営新宿線で簡単に行けた。
都営三田線では、まず三田駅で勝・西郷会見地と薩摩藩邸跡を、次に神保町駅から歩いて10分講武所跡へ。都営新宿線で岩本町駅下車1分で玄武館跡と神田お玉が池跡へ。
  丸ノ内線で東京駅構内通路八重洲口寄りに江戸の風情が分かる絵がいくつか説明付記で貼られていた。
つぎは羽田直行バスで空港へ向かうとき、バスの車中からお台場砲台跡をレインボーブリッジから見る。
羽田空港では宮本武蔵の絵や武蔵の作の不動明王像、木刀などを見る。

今回回れず次回は行ってみたい場所は、土佐藩中屋敷跡、軍艦操練所跡、麻布一之橋、東禅寺など

江戸無血開城 町薩摩邸(勝・西郷の会見地)

「この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
 この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
 現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また人情話で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。


薩摩屋敷跡 NEC本社沿いにあります。




出光美術館 休館日でした。またにします。




講武所跡 講武所 
 この標識の立っている前の道から神田川迄の一帯に、かって講武所がありました。講武所とは、ペリー来航後の政情から、旗本・御家人に剣術・槍術・砲術などを学ばせる必要を感じて、幕府がもうけた施設です。安政元年四月に、築地の下総佐倉藩堀田家中屋敷の跡地(中央区築地六丁目)に講武所が開校しましたが、安政四年に築地は全て軍艦操練所用地となり、講武所は移転を余儀なくされました。安政六年一月から、小川町の越後長岡藩牧野家上屋敷とその周辺が上地され、翌七年に移転しました。
 明治 時代になると、陸軍の練兵場として使用されましたが、明治二十三年に三菱に払い下げられ、新たに三崎町という町ができました。「江戸復原図」(東京都教育委員会)によると、左の図のようになっています。

平成十六年六月 千代田区教育委員会




玄武館跡 東松下町、右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)の石碑あり
 江戸時代のこの界隈は、商人や職人の家と、武家屋敷が混在する場所でした。このうち武家地には、「お玉が池」という一風変わった通称の一角があったことも知られています。文政八年、北辰一刀流の開祖千葉周作の剣術道場「玄武館」が、日本橋品川町からこの地に移ってきました。
門人数千人という玄武館は江戸随一の道場ともいわれ、坂本龍馬、清河八郎、山岡鉄舟等も同門の出身です。また、玄武館の隣には、儒者東条一堂の「瑤池塾」がありました。
 幕末のこの界隈は、新時代を切り拓くために奔走した若き志士たちが、飛躍へ向け文武を練った場所だったのです。
明治二年、神田松下町一丁目代地、神田紺屋町一丁目代地、神田三島町、神田岸町、神田富山町二丁目の一部と武家地が合併し、東松下町となりました。
(以下略)





岩井町 神田元岩井町
 この界隈はかって神田元岩井町と呼ばれていました。岩井町という名前は、代々徳川将軍家のご用鎧師をつとめた岩井家の屋敷があったことに由来するとされています。
 この町は、もともと湯島(現在の文京区)にありましたが、天和二年の大火で付近一帯が焼け野原となりました。そこで幕府は焼け出された人々にこの地を町人地として与え、ここに岩井町が誕生したのです。ところが享保年間、この岩井町も火災にあってしまいます。こんどは柳原土手が被災した町人に与えられました。このとき、柳原土手に移った人々は、町名を「柳原岩井町」と定めます。一方、移転せずに残った人々はこちらが元からある岩井町という意味を込め、町名を「元岩井町」としたのです。
 江戸時代の元岩井町には、金物を扱う商人などが居たようです。文政七年に書かれた「江戸買物独案内」には、釘や銅物などを扱う鉄物問屋・三河屋が町内にあったことが記されています。

(以下略)




お玉が池跡稲荷 繁栄お玉稲荷大明神
 この辺りに昔、お玉が池という池がありました。江戸の初めには不忍池よりも大きかったといわれますが、徐々に埋め立てられ姿を消したといいます。最初、桜が池とよばれましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げたとの古事から、お玉が池と呼ばれるようになったといいます。

 江戸時代後期から幕末にかけて、神田のお玉が池と呼ばれた辺りは、儒学者・漢学者等が数多く居住して、江戸の学問の中心地の一つをなしていました。しかし、お玉が池と呼ばれた範囲がどの辺りまでか、あるいは文化人がどこに居を構えたか、ということはほとんど分かっていません。
 現在左の図にもあるようにこの界隈には、お玉が池とそこで暮らした人々を偲ぶ数多くの記念碑が建てられています。
<例 日本で最初のお玉が池種痘所あった所>




江戸城との位置(案内地図看板より)




東京駅に昔の江戸風景パネル 繁昌する江戸のメインストリート
 今に続く江戸のメインストリート、通町筋(現・中央通り)。道幅約18メートルに及ぶこの土の道に行き交う人々と軒を連ねる大店。
画家のまなざしは、木彫りの龍を戴く建看板、あるいは屋根上に梯子が聳え立つ自身番屋に注がれており、これらが不自然なほどに大きく描かれている。
 通り右端の書店には、天井から釣り下がった絵を興味深そうに指さす子どもが描き込められており、その姿が微笑ましい。「日本橋付近」というタイトルをもつこの絵は、幕末の江戸を訪れたプロシアの外交使節団がまとめた報告書の付図で、繁昌する江戸の様子を克明に伝える貴重な記録である。
(「日本橋付近」「公式資料によるプロイセンの東アジア遠征」の付図)東京都江戸東京博物館所蔵




京橋夜景
京橋夜景
 満月の明かりに照らされて京橋をのどかにそぞろ歩く人々。橋の下を流れ行く京橋川には、荷物を積んだ川舟がゆったりと進んでいく。
 河岸には小さな桟橋が幾つもあり、陸揚げを待つ竹が、回漕されてきた筏のままに浮かんでいる。峻険な断崖のように描かれた青竹の誇張は、火災都市江戸において竹が建築資材として大量に消費されたことを意味する。
 絵師広重は、この京橋からほど近い定火消屋敷(現・丸の内二丁 目、重要文化財「明治生命館」付近)に生まれた。
歌川広重画「名所江戸百景・京橋竹がし」安政四年東京都江戸東京博物館所蔵



ウオーターフロントでの歌舞伎 ウオーターフロントでの歌舞伎
 かつて皇居前広場一帯は海辺であり、八重洲一帯はまさに江戸のウオーターフロントであった。その後、江戸幕府によって埋め立てられ、新し
い市街地が生まれていった。この屏風絵は、建設途上の活気ある江戸市中を描いている。当時のウオーターフロントでは、上方下りの人形浄瑠
 璃や歌舞伎、軽業など小屋掛け興業が盛んに行われた。ここでは若衆歌舞伎に集う人々の様子が生き生きと描かれる。鼠木戸には覆面の警護人

 土間には派手な風体のカブキ者やダテ者。桟敷には、手すりに緋毛氈を掛けて舞台を楽しむ観衆。その間に、蒔絵弁当や箱膳、流行の煙管に刻み煙草を載せた盆などが見える。
「江戸名所図屏風」より 17世紀前期 出光美術館所蔵


日本橋


江戸城と江戸地図



お台場砲台跡




宮本武蔵の遺品展(羽田空港美術館) パンフレットがリンクされてます


参考文献、NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 龍馬伝 NHK出版
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